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空き瓶

思ったことや自作小説について

水滴のまえに強い高熱光源を置くと,水滴はまたたく間に蒸散する

光輝く強く正しいものを目の当たりにしたとき,ひとは多かれ少なかれ,"恥" に似た感情を抱くのではないか。少なくとも自分はそうだ。

話し手が聴衆へなにか質問を投げかける ―― あまりにも簡単な問いかけ。僕でさえ答えが分かる。
でも,挙手して答えるのは,なんと無くためらわれる。みんな分かっている筈だし,それに進んで答えるのも不恰好というか,逆にバカっぽいというか。だいたい,自分が根本的に勘違いしていて,実はもっと難しい問いなのかも知れない。赤っ恥を掻くかも知れない。

―― 嘘だ。答えは見えすいていた。もしかしたら違うかも,なんて露ほども思っていやしない。答えが分かっているのに怖じ気づいて答えられない小心さを,単に正当化しようとしているだけだ。

でも,それも数瞬間のこと。実際は,質問を受け,すぐにひとりが堂々と答えた。しかし,その答えは考えていたものとは違った。はは,威勢良く答えた癖にまちがっていやがる ―― ニヤニヤしかけたのも束の間,話し手が,その答えが正しいことを明かした。

表面的には,ヘタに答えて恥を掻かずに済んだのかも知れない。けれど,内実は違う。分かっているのに色々理由付けして答えなかった情け無さ,まちがったひとを内心で [わら] った醜さ,そして実は自分がまちがっていた無能さ。これらは独立している筈だ。結果的にまちがっていたから,答えなかった小心さが帳消しになるわけではない。

―― そういう自分に比べ,怯むこと無くすぐさま挙手し,答えを明晰にいい当てたひと。これを考えると,「ああ,自分なんか消えたほうが良い。生きているだけ恥 [さら] しだ」 といった感覚が,ヒタヒタ忍びよってくる。
「話し手から聴衆への問いかけ」 というシチュエーションに限った話ではない *1。力強い正しさを見せつけられ,自分の過ちが浮き彫りになる。これは良くあることだ。正真正銘の正しさのまえでは,あれやこれや正当化してきた自分の考えや行動なんて,チリ紙のごとく吹きとばされてしまう。

特にオチは無いや ……。正しさに直面するたびに自分の浅ましさを痛感する,これはどうしようも無い。

追記 (2016年1月1日)

自ら答えたひとが予想通りまちがっていて,やはり僕の答えのほうが合っていたとしても,話は変わらない。このことに今さら気づいた。
そうだ。答えの正否が問題なのではない。もっと深いところにある "正しさ" について話したい筈だった。もし誤りだったとしても,先陣を切って答えた彼は,分かっている (と思いこんでいる) 癖に逃げる僕よりも,遙かに力強い。

こう,自分でも気づかないうちに話を矮小化していて *2,この記事自体が自分の浅さを露呈しているようで,全文を削除したいぐらいだ ……。

*1:実のところは逆というか,「正しさが自分の過ちを浮き彫りにする」 象徴として,これを書いたのだけど。

*2:問いかけのシチュエーションが,そもそも比喩として不適切だったのかも知れない。でも,より適当な比喩も思いつけない。